シューマンを弾く会

ひびぴあのブログ

2年に1度行われる

1人の作曲家の作品を弾く会。

前回は『フォーレ』その前は『ドビュッシー』

その前は『メンデルスゾーン』・・・・・そして

今年は、没後170年のシューマンです。

シューマンの曲はすごくかっこよく

メロディーもショパンに続くくらい

綺麗な印象です。そして1曲の中に

必ず静かな部分と激しい部分がある印象です。

そういうところは

シューマンの内面を表しているのかなと思います。

シューマンについて

1810年 

ザクセン王国(今のドイツ) ツヴィッカウで生まれる父は文学を愛し、母は音楽を愛する家庭で育つ。そんな母の影響で、音楽に興味を持ちピアノを始める。

1828年 

ライプツィヒ大学法学部に進学するが、音楽に対する情熱は衰えることはなく沢山の作品を作る。ピアニストとしても活動し、『シューベルトのピアノ三重奏』や『モシュレスのアレクサンダー行進曲による変奏曲』などを演奏している。

1830年 

クララと出会うが結婚までの困難な道のりが待っている。フランクフルトでパガニーニ(バイオリニスト)の演奏に接し強い衝撃を受ける。『アベック変奏曲』を完成。この曲に対し、母親からの祝福を受け、晴れて音楽家としての道を許される。

1832年 

指の不調が、治療しても改善の兆しがなく、深い絶望に襲われる。

1834年 

『新音楽時報』を創刊する。ここでショパンや、ブラームスなどを世に送り出す。ヴィークの生徒である、エルネスティーネと婚約する。(・・・がのち、クララへの思いが強くなり婚約は破棄する)

1836年 

母が没し、クララとの将来も絶望的だったのもあり、鬱状態に陥り音楽活動が停止の状況。  

1838年 

1年かけて状況が上向きになり、実りのある創作の年になる。

1840年 

裁判所の許可が下り、クララと結婚式をあげる。クララに『ミルテの花』(作品25)を贈る。

1844年 

家族でドレスデンに移る。 新しい環境で創作に力を発揮。特に室内楽の分野では爆発的な創作力を発揮。

1850年 

ライン側沿いのデュッセルドルフに移る。市立劇場で、以前メンデルスゾーンが務めていた指揮者の仕事をメインで努める。

1853年 

指揮者としての仕事が精神的疲労の頂点に。そして11月に辞任する。ブラームスが訪問してくる。ドイツの新しい道を直感する。

1854年 

体調を大きく崩し、幻聴が激しくなる。気を病みライン川から身を投じるが、通りかかった船に助けられる。その後、ボン近郊のエンデニヒ病院で生涯を過ごす。

1856年 

エンデニヒに施設で死去。 ボンの墓地に埋葬される。

ウィーンの謝肉祭の道化

1839年の作品

ウィーンの滞在中に経験した賑やかな

謝肉祭(カーニバル)の様子を描いた作品

全5曲からなる

当初は『ロマンティックな大ソナタ』と構想されたが

最終的には『幻想的情景』という副題がつけられた。

⓵アレグロ(快速にの意)

ロンド形式

途中にフランスの国歌のフレーズが引用されている。

当時、ウィーンの検閲の対象になった作品で

ウィーンの厳しい言論統制を風刺している。

②ロマンツェ(抒情的な旋律美と感情的な表現)

短く、哀愁を帯びた抒情的な楽章。

③スケルツィーノ(遊び心)

軽快でユーモラスに満ちた楽章。

④インテルメッツォ(間奏曲)

絶え間ない16分音符の動きの中で情熱的なメロディーが歌われる。

⑤フィナーレ(終曲)

ソナタ形式。

華やかで力強い終曲。

今回演奏する曲

③スケルツィーノと④インテルメッツォです。

インテルメッツォは

先日のピティナ指導者ライセンステスト

選曲した曲です。

以前に⓵アレグロと⑤フィナーレを練習したことがあるので

②ロマンツェを弾いたら

一応コンプリートです。

大曲のソナタもそうですが

なかなか全楽章を同時に練習して

本番演奏するのは

なかなかハードなので

そんな機会はありませんでしたが

本当は、全部通して物語が完結しているので

いつか残り1曲を練習して

全曲通して弾くことで

シューマンの描いたウィーンのお祭騒ぎを感じたいと思います。

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